場所
六角経葳は、鳥羽法皇の皇后であった美福門院が、法皇の菩提を弔う目的で建立された経葳です。
経葳とは経典や仏教関係の書物を収蔵する蔵であり、そこには美福門院自身が紺紙に金泥で浄写した一切経が収められていました。なお、現在紺紙金泥一切経は重要文化財として霊宝館に収蔵されています。
本来の六角経葳は1159年に建立されているのですが、1926年に失火によって亡失しており、現在の経葳は1934年に再建したもの。
美福門院は紺紙金泥一切経を寄進した後に一切経会を行わせましたが、その持費として荒川荘も寄進させたため、別名『荒川経葳』とも呼ばれています。荒川荘は紀伊国(現在の和歌山県全域と三重県南部)にあった荘園で、平たく言えば寺社や貴族の私有農園です。
因みに藤原得子は「自分の遺骨を高野山に埋葬して」と遺言を残し、死後火葬された遺骨はその遺言通りに高野山に納められました。しかし、当時の高野山は女人禁制であったため、遺骨とはいえ女人を受け入れるのはどうなのかと問題視されていたのだとか。